元妻と会った。蜜柑をくれた。

食事に興味が無い。こう言うと大げさかもしれないが、"美味しい物を高いお金を払ってでも食べたい"という欲望がないのである。
自分の母親はあまり料理が得意ではなく、子供の頃の一番のご馳走が、湯煎するタイプのレトルトハンバーグであった事も、一部影響しているかもしれない。今でも食事は生命活動の維持の為の摂取であり、そこにあまりコストを掛けたくないのだ。

女性から見て、本当につまらない男である事は自覚している。

元妻名義の保険の書類が自宅に届いたのは先月末の事だった。
LINEでその旨を伝えたところ、
「11月にそっち行く用事があるから、その時直接受け取るよ。」
との返答が来た。そして昨晩、約7か月ぶりに元妻と会ったのだった。

約束の時間に間に合うように部屋を出る。ぼんやりと国際通りに向かって歩いていると、自分が手ぶらである事に気づいた。肝心な保険の書類を持っていない。
元妻がうんざりする顔が脳裏に浮かび、慌てて部屋に戻る。季節外れの夏日であったので、パーカーの下に汗をかきながら再び国際通りへ向かった。
彼女の終業が遅れたようで、待ち合わせには運よく間に合う事が出来た。

スターバックスで買ったコーヒーを飲みながら、彼女が友人と会う約束の時間まで世間話をする。
7か月ぶりに会う彼女は、結婚していた頃とちっとも変っていなかった。あの頃のように話題を振ってくれて、あの頃のように笑って答える。一方僕はどの様な態度をとるべきか迷っていた。普段通りを装ってはいたつもりだが、どこかぎこちなさの残る会話だったように思う。
肝心な書類も渡し、彼女は友人と合流して今から飲みに行くそうだ。
「そうだ、猫見に行っていい?」別れ際に彼女が言った。
「ちょっと撫でたらすぐ帰るからさ。飲み終わった後連絡するよ。」

僕は「構わないよ。」と答え、日付の変わった午前0時にスマートフォンを握り締めて待っていた。今のところ連絡は無い。
結局彼女は翌朝の8時に家に来た。
「はい、これお土産。」と、手渡されたのは蜜柑の袋だった。
何故蜜柑なのかと思ったが、一緒に暮らしていた時、僕はやたら蜜柑を食べていた事を思い出した。

食事には確かに興味は無いのだが、果物は別腹であった。特に蜜柑は毎年"箱"で購入して、そのほとんどを僕が一人で食べていた。あの細胞膜のような皮を噛むと出てくる粒粒の触感がたまらないのである。
独りで暮らすようになって、自分の好きな物を自分自身ですっかり忘れていた。果物なんて久しく口にしていなかった。

8:30に仕事へ出ねばならないので一緒に家を出る。肝心の猫達は7か月の間にすっかり元妻の顔を忘れてしまったのか、他人を見る目で彼女を見つめていた。
少し買い物してから夕方に飛行機で沖縄を発つという彼女が僕に向かって手を振る。猫以外に見送られて仕事に行くなんて久しぶりだった。
「あいつらには、後でよく言い聞かせておくよ。」と、僕も振り返した。
業務を終えて暗い部屋に一人帰宅。テーブルに置かれた蜜柑を剥き、一粒口に入れると酸っぱくて涙が出た。
関連記事
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント